アニメーション 作品賞

  • 『ルックバック』

    『ルックバック』

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  •  一枚一枚の絵を作画するアニメーションは「偶然、映像に何かが映り込むということはあり得ない」という点で、実写作品とは異なる特性がある。映像に何かが描かれていたとすれば、それは意図されたものだということなのだ。

     そういった視点で『ルックバック』を観ると、映像の端々に映画独自の<演出>を見出せるのである。例えば、教室の壁に貼られた<希望><期待><試練>などと書かれた習字。これらの言葉は、その後の展開を予兆させるものであることが窺える。
     また、藤野が京本の絵に衝撃を受けるくだりでは、教室が無限に広がってゆくようなショットを積み重ねることによって、彼女の孤立感を表現。或いは、職員室で京本へ卒業証書を届けるよう担任教師が藤野に請うくだり。担任が藤野に丸筒を手渡す姿は、まるでバトンを渡すようなショットになっている。さらに、映画冒頭では手塚治虫監督の短編『JUMPING』(84)のような降下する視点で、観客を「ルックバック」の世界に誘う。こういった表現は、藤本タツキの原作漫画には存在しない。つまり、押山清高監督による映画独自の<演出>が、作品に介在しているということなのだ。それにも関わらず、原作漫画の印象と乖離していない点に驚かされるのである。
     コミックスを手に映像と比較すると、原作漫画には存在しない表現を加えることによって「ルックバック」という作品を補強しているようにさえ見えるからだ。原典に敬意を表しつつ、アニメーションにしか成せない独自の表現を追求しているのだと解せる。

     上映尺60分未満で均一料金のODS作品ながら20億円を超える興収を計上した点も重要で、満足度の高さから「料金が高い」との声がほぼ聞かれなかった。ここには映画興行の未来に対するヒントも隠されている。もうひとつ、原作漫画にはない描写がある。藤野の部屋の床には『アマデウス』(84)のDVDが確認できる。押山監督にとって藤野と京本の関係は、サリエリとアマデウスだという解釈なのだ。

    (松崎 健夫)

    ※手塚治虫監督の「塚」は、旧字の点ありが正式になります

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